アフリカとの出会い55
 それでも大地は乾く   

  アフリカンコネクション 竹田悦子

 1984年におこったエチオピアやソマリアの飢餓は、その飢餓を救うための募金を目的に、アメリカのアーチスト達が歌った「We are the world」と共に、私の記憶の中に刻み込まれている。飢餓地帯は「アフリカの角」と呼ばれていて、ソマリア、エチオピア、ジプチ、ケニア北東部を含む地域である。

 ケニアは、アフリカで唯一「難民を受け入れている国」である。スーダンとの国境付近に位置するカクマ難民キャンプ、ソマリアとの国境に位置するダダーブ難民キャンプがある。「アフリカの角」地域が、国際社会から「飢饉」と認定された時から、ケニアはソマリアからの難民を受け入れ続けている。現在、キャンプには9万とも言われるソマリア人が押し寄せ、ケニアはイフォというところにキャンプを増設している。ここに住む人たちは将来的には本国に帰還するか、難民となって外国へ亡命したり、ケニア国内に残ったりする。1991年以来ソマリアは無政府国家であり、歴史的にも複雑な過程をへて今に至っている。実は、ソマリアの政府関係者や要人達は現在もケニアに住んでいるのだ。

 ケニアには、上記以外にもソマリアからの難民が定住している難民キャンプが多くある。その中で一番大きいのが、イシリーと呼ばれる首都ナイロビにある町だ。私がその町に友人を訪ねたことがあった。その地域にある水道局で働く友人は、「ここで買えない物はない」と言っていた。なるほど友人が言う通り、少し歩けば「銃」・「ドラッグ」・「酒」を売る店、違法なレートの銀行や通信会社などがある。ソマリア人が、ソマリア人向けに展開するビジネスは、多岐にわたっていた。

 友人は、この町の目抜き通りにあるエチオピア料理店に連れて行ってくれた。エチオピア料理は、インジュラというパンが有名で、そこに野菜を添えて、手で食べる。店も、食事も、人も、そこがケニアではないことを感じさせる。流れ来るアラブ系の音楽を聴きながら、レストランの上からこの難民キャンプ町並みを眺めた。

 現在、難民としてケニアに入国しているソマリア人の数は、合法非合法を含めると50万人以上はいるらしい。彼らの中には、ビジネスで成功し、ケニアの不動産を買いあさり、不動産バブルを加速させている動きもある。

 2011年7月20日に国連が飢餓宣言を下す事態に至った今回の飢饉は降雨量が少なかったことに起因している。東アフリカに四季はなく、一年は雨季と乾季という雨が降る季節と降らない季節に分けられるのだが、昨年(2010年)10月から12月まで雨季の間の雨量はお情け程度にも降らず、2011年3月から5月の雨季も雨が殆ど降らなかった。その降雨量は、1950年以降で最低量だった。「旱魃」は、ソマリア紛争から始まる無政府状態やソマリアの国内諸問題によって助長され大量のソマリア難民を出す結果になった。

 ケニアの西北部も、去年から今年にかけて雨が少なかった。連日のニュースでも、家畜が死んだり食料不足に陥ったりしていると報道していた。しかし、ケニアには別の地域に灌漑システムがあって旱魃をどうにかまぬがれ、又民間企業が製造する食料品が流通する道路もあり、手段もあり、人々の手に渡る努力もされている。

 また、「Kenyans for Kenya」(ケニアのためのケニア人)という携帯電話の送金システムを利用したケニア人支援の募金活動も行われた。25万人もの参加者が参加した画期的な取り組みであった。

 ケニアの隣国ソマリアが抱える問題の影響は、そのままケニアの国内問題として、大きくのしかかっている。


 アフリカとの出会い目次へ        トップへ